展覧会 art exhibitions

上映会 film screening

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フィルム・メーカーズ・フィールド | Film Maker's Field

略歴:
1977年4月、ノトヨシヒコ、森田淳一、福間良夫の三名は福岡市民会館小ホールにて『個人映画への招待/個人映画10年史1963−73』に参画、事実上映像作家集団<フィルム・メーカーズ・フィールド>の結成となる。翌5月より月一回のペースでFMFシネマテークとして定期的ジプシー上映会をおこなう。大手門3丁目に事務所FMFプランニングルームを開設、野元智、坪田正昭、津村秀男、安藤俊彦、宮田靖子、森優一、吉住美昭が加わり一挙大所帯となる。

1978年1周年記念として、3分間8ミリフィルムによるアンデパンダン形式のフィルムフェスティバル<パーソナルフォーカス>を企画、不定期ながら現在までほぼその形態を変えず続行中。

1980年4月、過密スケジュールと財政難に見舞われ事実上解散。

1982年、ノトヨシヒコ、福間良夫、宮田靖子が再結成メンバーとしてFMFシネマテークを再開。パーソナルフォーカスを東京イメージフォーラムで上映した事から、全国のフィルムメーカーたちとの交流・ネットワーク活動がきざし始める。松本俊夫氏率いる九州芸工大、福岡市美術館、FMFと黄金の三角関係が生まれ空前絶後の実験映画バブル期を迎える。FMFシネマテーク、映像作家としての作品制作も充実、IAF研究室やアーティストとの交流からフィルムの様々な可能性や、展示、発表についての冒険、インスタレ−ション、パフォーマンス等も含めたシネマテークに変容していく。と同時に活字メディアとしての<FMF CINEMATHEQUE>も発刊、同人誌の例にもれず3号で終了。またIAFにて映像講座をおこなう。講師陣は森下明彦、吉住美昭、ノトヨシヒコ、福間良夫。これまた3期生で終了。

1986年、福岡における実験映画状況がややしぼみはじめる。この頃から古典といわれる映画の研究に精力的に取り組み、フィルムヒストリーシリーズの上映を行う。(1988年まで)

1987年10周年記念シネマテーク<FILM−TANK>を企画上映。福岡の実験映画状況はさらにしぼみ、FMFの活動は、’地道に’’ほそぼそ’という形容をされるも、各地の映像作家との交流は興隆期を迎え、1989年には映像ネットワークジャパン「VIEW」の結成に参画、ネットワーク活動時代に突入。9月にはハンガリーレティナ映画祭に日本プログラムのコーディネーターとして正式招待、プログラムは特別功労賞を受賞。
FMFプランニングルームは荒江1丁目に転居。

1991年映像ネットワークVIEWフェスティバル1991を埼玉県名栗村で行う。このプログラムは翌年3月福岡市美術館のシネマ・ビデオウィークにて上映。FMFのメンバーはノトヨシヒコに代って川口肇が参加。パーソナルフォーカスの出品作品は激減したものの、巡回上映は映像ネットワークに乗って全国各地で行われるようになる。

1993年映像ネットワークVIEWフェスティバル1993を軽井沢で行う。フェス開催のための会議を各地で行い財政的にも体力的にも危機に見舞われシネマテークの回数は年々少なくなる。

1997年20周年記念シネマテーク<映像の錬金術師たち>を企画上映。FMFプランニングルームを高取2丁目春秋社屋根裏部屋に移す。屋根裏でアンダーグラウンド!を合言葉に会員制のシネマテーク<屋根裏シネマテーク>を行う。(2001年まで)
FMF山形支部員となった川口肇に代り山本宰が参加。

1999年おのみち8ミリフィルムフェスティバル’99の8ミリ講座ワークショップ講師を務める。シネマテーク100回記念<金井勝>作品上映。

2000年福岡市総合図書館映像セミナー<フィルム・ネット・ワークス>のコーディネーターとして企画参加。

2001年神戸21世紀・復興記念事業<PERSONAL VISION 2001>に出品
赤坂にREEL OUT映写室を共同でオープン。シネマテークに明け暮れる。

2003年パーソナルフォーカス2003を持って京都・東京・山形上映に走る。その間悲願であった常設館REEL OUT映写室はまたもや3年でOUT。FMFプランニングルームは荒江1丁目に出戻る。
パーソナルフォーカス2003は巡回上映が2005年まで続くスローなツアーとなる。REEL OUT映写室閉室後休眠状態のまま現在に至るはずだったが、2006年4月富士フィルムが8ミリフィルムの製造・販売の中止を発表、全国規模で「フィルム文化を存続させる会」が結成され運動が続けられる中、20回目のパーソナルフォーカス2007を現在準備中。